id:automate_tomoさんと交換日記状態です。とっても緊張するし、エキサイティングです。自分の中から形にならない想いや定まらない思考や、割り切れないどろどろした物を、引き出して整理するきっかけになる感じでしょうか。むこうはあんなに誠意出してたくさん書いてくれるのに、私が書く量は少ないし、なんかまとまってないし。うーん。ごめんなさい、「待って」としか言えない。でも、こちらが書いているとそれに倍する(というかそれ以上の)量がアップされているのだった。
いろいろ書きたいことはあるのです。あるのですが、ありすぎて何から言っていいのか。ここ数年間ため続けて誰にも伝えられなかった想いというか考えを、伝えられるかもしれないと思うととても急き立てられます。もっとちゃんと言うなら、伝えるという押し付けがましいことではないです。物事に対する考え方・捉え方を共有していたことを確認できるかもしれないということなんです。これは私にとってはとっても魅力的で蟲惑的で、とても危険な誘惑なのです。
共有を確認するには、書いてあることにたいして「激しく同意」とか言っても駄目なんです。言葉の応答から、想いが互いの中に共有しているということを捉えなければ。だからある程度の速さが要求される。だから、私のこの筆の遅さは結構致命的な欠陥なんです。こちらが1を書いている間に相手は10書いてしまいます。それでは、共鳴を捉えられないかもしれない。
「想い」なんて身近な友人とかに話せばいいと思うかもしれないですけど、友人だからって関心が同じだとは限らないのです。話してみても、「あぁそれね」って感じで軽くいなされるか、「わけわからない」って話そのものが続かないのです。それは私の説明能力の無さからくるものだとは思うのですが・・・。
体験を共有していれば分かってくれるかもしれません。でもそんなことはないので、体験を説明しなければいけないわけですが、「自分が何故そう感じたか?そして何故それを重要視するのか?」を説明するのはとても難しい。だってそれは「私自身のことをわかって」ってことだからです。そんなことを伝えられるのでしょうか?限られた時間で。似たような体験を持っているかどうかで説明のし易さは異なるとは思うのですが・・・。
どうやってこの「伝えたいもの」を伝えればいいのでしょう?もし、一生懸命できる限りの力で伝えようとして伝えられなかったとしたら?それはとても哀しいことで、さらに嫌なのが相互不理解が相手を悲しませてしまうこと。それが理解し合う努力をするまえにあきらめてしまう理由だと思うのです。
なのに、何故今私はこんなことに!さて、以下は意味もなく文体を変えて続く!
id:automate_tomo:20040302#1078203848
勝手に改行をなくして引用する。
わかる人にだけわかって欲しい。それはある。
どちらかというと、「私のことを理解して欲しいと、私が思う相手」にわかって欲しい。極めて特定の相手に、私のことをわかって欲しいのだ。でも、分かってくれない。だから、せめて世界のどこかに私の創作したものをわかる人がいて欲しい。そして、私の創作したものを実際にわかって欲しい。
しかし誰にも理解されずに歯がゆく思うことも侭ある。
ネット上にこういうのを公開しはじめたときはそうだった。公開を始めたのは1999年の5月あたりかな。もう痕跡はないけど。やっぱり言葉遊びみたいなものを書いていた。下記みたいなもの。
1999/05/17<心を許す相手> 人工知能がどういうふうに使われるか 人間の話相手,相談相手として 何故なら人間は人間に対し心を本当に許すのは難しいから
何か、その後の私のサイトを暗示するようなこと(誰にも読まれもしないってこと!)を書いている。それにしても暗いぞ!(ちなみに掲示板とかには同じ学科の友達とかが、関係ない馬鹿話でそれなりに盛り上がってはいた。)
それでもメタファーに満ち満ちた文章を書かざるを得ない。
そう。例え、わかってくれなくても、私も自分の書き方で書かざる得なかった。
私はけっこうダイレクトな表現で書くことが多い。でも書かれている内容があまり他人の興味を引かないのか読まれない。例え、誰も読んでいなくても書きたかった。書いているだけで楽しかった。
でも先ほど述べたように、私が考えていることについて誰かに興味を持って欲しかったし。私の文章を面白いと思って欲しかった。とはいうものの、自分の考えや書き方を歪めてまで他者に媚びたくはなかった(おそらく歪めようが何しようが、他者に興味を持たせる力はなかったのだが)。
私はメタファーをあまり用いずに、語り手の想いをダイレクトに書くことが多いのはたぶん、詩やお話を作る理由に関わっていると思う。私にとって創作につながる欲求の一つに、人の一見不可解な行動に対して「解釈」をつけたいというものがある。「なんで、あの人はこんなこと言ったのだろう?」「なんであんな不可解な行動をして、私を傷つけるんだ?」と感じる。そして私には現時点ではわからなくて不条理に感じるけど、相手の論理があるんじゃないかって思った。その論理を推定し、自分の過ちを認め、相手へ怒りを解き、自分を納得させ、二度同じ間違いを繰り返したくはなかった。前にも書いた通り、私には人の言動から心の機微を感じ取る力が足りない。創作を重ねることによって、人を理解できるかもしれない。また、私が創作したものを読んで、誰かが他者のことを考える上でのきっかけになるかもしれない。
悲しいことに、誰にも見られない私のページの対象は自ずと自分になっていった。不可解でおぞましくて無能な自分を見つめながら、id:automate_tomoさんが言うように自己愛的なものを紡いでいたのかもしれない。
(「面白いの考えたよ〜、見て見て」という要素が一番大きいのだけど、上記みたいな要素も少しはあった。)
id:fujisawamasashiもそれがあるからこそ、詩という形、もしくはテキストボックスで括って、他の文章と隔てたところに何かしら書くのではないでしょうか?…てちょっと違うのかしら。そしてその後書きとして照れ隠しめいた文章が続くこともあるので、きっとそうではないのかな、と失礼なことを勝手に推測したり。
例え理解されなくても、私は書かざるえなかった。
私が詩(みたいなもの)を分離する理由はどういうものだろう。私は自分の詩に対して普通の散文より思い入れがある。書く時の衝動が強いからだ。そして、その詩は実際の自分と乖離している。理想主義だったりする。眩しくなるくらい一途だったりする。普段の私と照らし合わせれば、地の文ではとてもじゃないけど書けない。私にそんな資格はない。でも、言いたいことがある。だから分離する。
「これは詩です。私はこの中の発言について責任をおいません。こんな一途なやつ私の心の中にはいません。作品であって、私の考えていることも少しは入っていますが、私自身ではありません。私のある部分を切り離したものです。切り離された部分だけを持って、『それがあなたの本心なの?』って問われても困ります。私の中にはいいやつもいるし、嫌なやつもいます。実際あなたがみている私は全てをひっくるめた私です。」
照れ隠しももちろんあります。
他人が読むと詩というものは自己愛の結晶であったり、主観丸出しで客観視する側が恥ずかしくなることもしばしば。それでも尚、人はヘタな詩を詠もうとする(id:fujisawamasashiのことじゃないよ)。どうしてなのだろうか。初めから「これ、本当に適当に作ったんだけどさ」などと言い訳をしつつ、非難されたときの言い訳を山ほど考えながらも、他人に自己愛の結晶たる詩を見せようとする試みを続けざるを得ない。
全て真剣に作ったわけではないけど、多くの文に思い入れがあるのは確か。だから私は「適当に作った」とは言いたくない。自分の子供のように愛着がある(子供いないけど)。でも非難されたときの言い訳はたくさん考える。「こういう解釈もできるし、こういう解釈もできるし、この話ともリンクするんだよ」って感じで、自分でも何だかわからなくなるくらい言い訳を考える。「非難される」「自分の薄っぺらさを見透かされる」のが怖いんだと思う。怖いけど、その「結晶」を見せようとする。
対象を身近なものに出来ない場合、このようなネット上に公開し、どこかにいるかもしれない、自分と共感できる思いを抱えた的の出現を夢見てしまうことを止められない。
これは、一般論だと思う。でも、「一般論だよ」で終わらせられないのは、私が書いた文章に興味を持ってくれたid:automate_tomoさんがこれを書いたことなのだ。id:automate_tomoさんが私の文章を見て、そしてid:automate_tomoさん自身の文章を内省して生まれた文章であることが・・・、私にこんな長い文章を書かせた。書かずにはいられない衝動があった。自分自身をこんなに語るなんて見苦しいと思うかもしれないけど許して欲しい。