『心の仕組み(下)』読み中
自分というものは淘汰圧を乗り越えて生きてきたものの末裔なんだなぁ(しみじみ)。感慨深いものがある。それは全て今生きている人類、生物に対してもいえることだけどさ。
あと、「ロマンティック・ラブ」は創作ではない、というのが面白かった。うん、たぶんそうだよね。
25ページに
親はどこの親も、子供の結婚相手の決定にできるかぎり力を行使しようとする、といういくぶんの真実が含まれている。しかし子供は親の選択を受動的に受け入れはしない。人は結婚相手について、強い情動、すなわち恋愛感情をもつので、婚約はしばしば親と子の激しい意志のぶつかりあいになる。
親と子の間でいろいろな駆け引きがあるわけだ。
人間は歴史をとおして、心の一部を他の部分と対抗させ、立派になるように淘汰されたのではない人間の本性から、なんとか礼儀正しい態度を引き出すための巧みな技法を生み出してきた。レトリック、詳しい説明、仲裁、顔をたてる方策、契約、抑止、機会均等、調停、法廷、強制力のある法律、単婚制、経済的な格差の制限、復讐の放棄などなど。夢想的な理論家はこの実際的な知恵を前にして謙虚になるべきだ。これらは今後もずっと、育児や言葉やメディアについての「文化的な」提言よりも、また暴力犯罪者の脳や遺伝子を調べて攻撃性の標識を探すとか、スラム街に抗暴力薬を配布するとかいった「生物学的な」提言よりも、効果的であり続けるだろう。
世の中は結局弱肉強食だというのもうなずける。でも、上記のようないろいろなものの積み重ねをしてきたのも人間なのだ。人間性とは道徳的・倫理的に悪だけでもないし、善だけでもない。より繁殖できたものが生き残れるという、自然淘汰された結果が今の人類だ。別に善を実行するためにデザインされたわけではない。高らかに愛や平和を唱えることは私にはできないけれど(それはもっと力がある人が何人もやっているし、それなりに効果も出ているとは思う)、確実な積み重ね(大海に水を一滴たらすようなものだとしても)を加えることができたらいいと思う。それはささやかな私の望み。