観測者が当事者になってしまったの?(ありがちなオチ?)

id:fujisawamasashi:20040604#p1の続き。

いろいろ引用しまくっていますが、別に返事を期待していたりするわけじゃないです。・・・と書くと期待しているみたいだな。

さて、「今日のてくてく」の6月4日http://homepage2.nifty.com/suzuki-kunie/diary0406.html#04で、こんな文章が。

私は、自分用のメモとして、たいていリンクを貼ってしまうけど、意識的に出典や内容がわかるようなリンクにする場合と、極力わからないようにする場合があるかな。後者の理由は、ほんとにいろいろ。なんとなくのリズムや気分もあるし、中途半端な保身や、中途半端な配慮だったり。
 もちろん、貼らない場合もある。貼らない場合は、単に面倒な気分ゆえのときと、「貼るほどでもないか」というような気分がしたときが多いかな。あと、もわっと全般的なことに対しての感想みたいなときとか。

うーむ、私のスタンスとほとんど同じかも。そして、

てな感じですが、BBSやコメント欄に書き込んだり、自分の所につけたりしないのは、そういう固定されたところだと、お返事をしたり・されたりの強さがよくわかんなくなって、気分的にしんどいことが多いからかな(こないだはじめてコメント欄に書きに行ってみた。ドキドキしてしまった)。

これも凄いわかる。コメント欄だと相手に返答を強要している気もするし、返答がないと悲しいし、ついでに、返答があるか見に行く必要があるし、何かとわずらわしい。コメント欄はちょっとしたことを書くか、「私のページに意見を書いたので良かったら読みにきてください」という感じで使うべきかな、って思う。有意義な議論ができている場所もあるみたいだけど。ともかく私はコメント欄を使うのが苦手です。


「日録」の6月5日「※系統樹はアート(=数学)だ!」http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/diary2004-06.html##05になんかリンクされてしまった。あわわ。

「「仄めかし」って何で面白いのかな」という疑問には,「それはちょっとばかり後ろめたい遊びだから」と答えましょう.ダイレクトに言わないというのはレトリックの常套手段ですが,表現的には少し排他的な罪深さ(だからこそ深みが出てくる)がありますよね.だからこそ愉しい(性格わる〜).

「仄めかし」をする人たちの視点はそういうものなのですね。私が書いた「対象を好きな人だけにわかるから良い」は、関係ない他者からの視点かな。「関係なさそうなものの間に、関係があると面白い」とか、「敢えてリンクをしないという機微」とか。

「何これ〜、はっきりして〜」と思うこともまた多い」

なんて以前に書いたけど、切実に知りたいと思ったら、何らかの手段を用いて知ろうとすると思う。まぁ「そのうちわかればいいか/わかんなくてもいいや」というヌルいスタンスで見てます。5日以降も「仄めかし」についていろいろ書いてある。どこからつながっているか皆目見当がつかない・・・。だれか解説・注釈ページを作りません?(←そんな暇人はいない。)


そういえば、id:finalvent:20040606#p4「僕がいまだに、本当に愛することをしらないからだろうか。」のネタはhttp://d.hatena.ne.jp/Ririka/comment?date=20040605#cにあるURLからつながっていたのかなぁ。 ちなみに「一生わたしを許さない、という人がいたら素敵。」は「少女失格」http://ririka.blogtribe.org/day-20031006.htmlにあります。