どうでもいいや、って気分の時もある2

  • もう少し正直にいろいろ書いていきたいけど、限界もあります。書いたものが他者に影響を与える可能性もある。筆禍があるんだから気をつけないといけない。法螺吹きな私ですが、いい加減なことを言い過ぎると後で大変なことになるし。でもがんばってみよう
  • でも、なんか、最近は少し言ってもいい気がしてきた。自分に欺瞞をつき続けるのは自分が可愛そうだ、というわけではなくて。
  • 私には私が大事にしている価値観があるわけ。それを他人に押し付けるのはよくないことだ。でも、生きている限り、他者からの価値観を押し付けられ続ける。他者の価値観と比較して、どう考えても自分が正しいときはちゃんと相手に伝わるように工夫して言うべきだ。価値相対主義(?)というか、「どちらが正しいか決められない」って立場もあるかもしれないけど。「変換」または「翻訳」を使えない相対主義者なんて要らないのです。・・・と脱線してしまった。
  • 他人が私の価値観に則って私を批判してくれるのが望み。
  • 私は全然駄目駄目で、理想とするところに全然届かないし、なんか後退している気もする。あぁ、これ卑下だね。だめだめ。でもね、もしかするとだよ、誰かが協力してくれれば、もう少し理想に近づけるかもしれないじゃない?実際私に投資(お金という意味だけではなくて)してくれる人もいる。そういう人たちのおかげで、少しはましになれているのだと思う。
  • 私の価値観を批判してくれるのも歓迎。価値観には愛着があるし、私の一部なわけであって、それを批判されれば一生懸命考える。そうすればより考えを発展深化させることができるだろう。
  • 弱い言葉は嫌い。はっきり言うのが好き。なあなあは不安。きつく言われないといけないのは私が鈍感だから。きつく言われるのはつらいけど、本当のことであるならば、それは私が引き受けなければいけないこと。
  • あぁ、でも、厳しく言う人にころっと騙されないか不安だなぁ。ただの無恥・鈍感・鉄面皮、他人のことを考えられない人を凄い人だと思ってしまったりして。しかし、力のある人の言葉というのは少しは分る。それは配慮だったり、強い哲学性だったりするし、いろいろだけど。まぁ、騙されたら騙されたで、私はそういう馬鹿なやつだって諦めるしかないかな。
  • でも、あんまり他人に頼ってはいかんなぁ。一応私の自己反省機能もあるのでいろいろ文句は言わせるんだけど、結局私の一部だから切実感というか緊迫感がないのだよね。他者によって自分というものが明確化し、考えを進めるきっかけとなる。
  • 私の書いていることなんてぬるぬるで読んでいる人からみれば気持ち悪いんだろうなって想像。「大人になれよ」なんて無思慮なことをいうやつはいないと思うけど。深く考えられない人はそうするだろう。でも、大雑把にはその助言は正しいと思う。頭のいい人は批判する前に、いくつかの仮説を立て、シミュレートし、そこから導かれる結論を複数パタン考えたりするのだろうか?
  • こんな(へんな)私ですが、そのうち社会に出る(←この表現には疑問があるが)わけです。私みたいなのがどれだけやっていけるのか、実験ですね。まぁ、進み次第報告していきたいです。他山の石にでもしてください、って無理か。