大学時代の思い出を抽象化して書いてみる

私が「こういうのがちょーむかつくー」とか言うことはあんまりないけど。

たまに攻撃的な人格が表に出てしまって、言葉を駆使して相手をコテンパンにしてしまうような時があるみたいです。自分では別に意識はしていないのだけど。だって、私にとって当然だと思うのはともかく、相手にとっても当然だと思うことを言っているだけのつもりなので。ただ、攻撃態勢に入っている(?)私を横から観察するのが好きな人もいるみたいです。ネチネチしてる気がするし、相手に反論を許さない、逃げ道を作らせない、逃げ道があるように見えてそこに追い込み墓穴を掘らせるような言葉使いをしている・・・と、その人は言うかもしれませんが私にそんな話術はありませんので。私の攻撃的な人格が表に表出するのは滅多にないと思います。ただ、許せないことがたまってくると危険ですねぇ。スイッチが入ってしまうこともあるのかも。5回くらいは「暴走したなぁ」、って言う記憶があります。でも、それ以外でも私は暴走していることがあるらしいです。別にそんなつもりはないんだけどなぁ。

私の討論・議論に関する技術の師匠のTさんはとても個性的でありかつバランス感覚の取れた人だと思う。師匠といっても私が勝手にそう思っているだけで、私が弟子なわけではない。そもそも私は討論とか議論が苦手である。議論を構成する技術がまったくといっていいほどない。このページを読んでみれば当然解かるだろうが(←この場合は本当に技術がないと言う意味で使っている。逆の使い方をするのは好きだが)。しかし、討論や議論が成立するために必要なものは何か、という話についてはとても興味がある。コミュニケーションとは「お互いのためになるようにしようね」ってことなのだ。そのさいに自分や相手が追うリスクもあるけど、基本的にメリットが多い。とりあえず、ファーストコンタクトは多くの場合は意味があるし重要である。二回目以降のことを考える上でも。討論議論の技術というのはいろいろあって本当に面白い。特に相手の欺瞞をいかに見抜くかという技術は興味深い。自分自身が誰かと話しているときは余裕がないからそんな技術が顔を出すことはすくない。でも、他者の会話を聞いているときは、そこそこ余裕があるので、誇張や欺瞞がどこに入るかを考えながら聞いてしまう。あんまり良い趣味ではないかな。Tさんの印象的な言葉は、「討論に勝つために(負けないために)必要なものは知識である」ということ。これは討論ゲームにおいていえることであるのだけど、実際の会話・交渉でもかなり当てはまる。