「あのとき 私に起こったことは 本当だ」

さて、かなり精神的にハイになって書いたと思われる3月3日の「交換日記」id:fujisawamasashi:20040303#p9について補足をしておこうと思う。蛇足かもしれない。

数時間、そして一日たって、書いたものを醒めた目で見てみると私は欺瞞を感じた。「自分のことを美化しすぎでは?」「かっこつけているんじゃないの?」って感じた。そして嫌な気分になった。嫌な気分を3月4日id:fujisawamasashi:20040304につらつらと書いていた。今はもう消してしまったが。自己の美化は見苦しいって思って、なんか嫌な気分だった。

でも、もう少し時間がたってきたら「別に美化なんかしていない」って思うようになった。じっくり考えてみると、あのとき私は正確に自分の心をトレースしたのではないかという気がするようになった。

私がid:automate_tomo:20040302#1078203848を読んだ後の感覚。「理解を得ることができた」「または想いを共有していた」と感じたこと。それに伴う強い衝動。その衝動を原動力として、私は自分の心を探りながら、言葉の配列を決めていく。

相手は、私が「余裕を持ってこんなことを書いている」、「お遊びで書いている」って思うかもしれないとは思う。私だって、相手がもしかするとお遊びで書いている可能性も考える。でも、例え相手がお遊びで書いていても私にとって、「私に衝動が生まれたこと」は事実なのだ。

相手には私の衝動を確認するすべはない。使い慣れていない言葉を使って言うなら、「エクリチュール(書かれたもの)に過ぎない」と言われればそれで終わり。いつでも取り消し可能な実体のないもの。

私だって相手の衝動なんてわからない。前にも書いたけど、応答からそれを推測するしかない。まぁ、この点はネット以外でも同じだけど、情報が書かれたものしかないのが特別かもしれない。書かれたものという情報はそれなりにゆがんでいるので、正しい推測はなかなか難しそうだ。それに自分が出している情報だけで、相手に自分を分かってもらえるとはとても信じられない。

でも偶然周波数が合って、共鳴[共感]が起こったのは事実ではないかという気がするのだ。正確にはそのように思いたいのだ。たぶん人にとって共鳴[共感]を得たという感覚は甘美な体験なので、無理やり共鳴したことにする可能性も極めて高い。全然違った互いの人生で、少しでも共鳴ができるならそれはそれですばらしいことだとは思う。

そう、だから「あのとき 私に起こったこと(衝動)は 本当だ」なのだ。

さて、「何、舞い上がってこんなの書いているの?」って、自分の一部が言うけど、逆に「面白いからいいじゃない」って言う自分もいて、互いに打ち消しあう。本当は定量化して簡単に打ち消しあうかどうか調べなければいけないんだけど、それはいろいろやってみてもがいてみてからじゃないとわからない。そして、「書くべきことを書かなかった」は、「書くべきではないことを書いてしまった」と同じくらいの後悔だ。そして結果こんな文章がウェブ上にアップされてしまうのだった。