否定することによって主張する
会話形式でいろいろ書くのは楽しいけど、時間ばっかり食う。「不確定性原理 ―量子力学を語る―」(著:並木美喜雄)ISBN4320031725も書くのに時間がかかったんだろうなぁって思う。まぁ、私のはお馬鹿ネタなのでこの本の名前をを出すのもおこがましいけど。
2000/01/16<川原で+否定と主張>のフォロー R:今回はなんですか。 S:古典に親しもう。 R:なんか裏がありそうですね。 S:残念ながらない。さて、この文章はどう思う? R:落ちがわからないのですけど。 S:やっぱりね。実はわたしもわからない。最後のA の台詞がなければまだまとまりがつくんだけど、 最後の台詞でなにか煙に巻かれてしまうんだ。 R:会話としては最初のA、B、Aまでで止めた方が 面白いと思いますけど。この場合、あんまり一つ の台詞が長くなるとおもしろくなくなってしまいます。 蛇足という感じがします。 S:まあ、無理矢理こういうのから教訓とかを 導き出そうとしない方がよいだろうね。 R:こういう文章を取り上げたページ製作者の意図は? S:「荘子」という本の中身は小さなお話、 説話といってもいいかも知れないが、 たくさんのっている。 例えば胡蝶の夢とか朝三暮四、無用の用、混沌の死、 命が長ければ恥が多し(←うろ覚え)、などが有名どころかな。 R:けっこうありますね。 S:そういう説話とういうのを、たまに読むのも なかなかおもしろいということを主張したいようだ。 さて、誰でも歴史で習っているように中国の歴史の中で 儒教というのが大きな役割をしてきたのは知っていると思う。 R:孔子とか孟子とかの話題になるのですか? S:いやいや、そうではない。例えばこの荘子という書物で、 「孔子や儒教の中で聖人とされる人達がつまらない考えばかりしている」 というニュアンスのことを書いている。 もちろん違う主張をしているのだから当然なんだけど。 それは儒教を否定することによって自分たちを主張することになる。 この否定することによる主張という形が、 儒教というのが中国でどれだけ重要な位置を 占めてきたかを物語るものとなるだろうね。 R:悪魔を信じる人がそれに対する神を憎まなければいけないように? S:それは拡張としてはそんなにずれていないけど、 少し誤解を招くかも。 まあ、儒教は宗教か、道教は宗教かと言われると困るんだけど、 定義の仕方では十分宗教性を持っていると思う。 しかし今回はここらへんでおわり。 R:なんか尻切れとんぼ、竜頭蛇尾ですね。 S:竜頭のつもりもないけど。 これ以上増えてもさらに混乱するだけだし。 それに引用文もよくわからない文だから それに付随した文章も分けがわからなくてもちょうどよいだろう。 R:そこまで開き直らなくても…結局雑文で終わってしまいましたね。