意志

「仮綴じ」が凄いことになっている。私の琴線に触れてくる。

願わくば、彼女の意志が結実するまで、誰も外乱を与えることがないように、・・・なんて私は思ったり。あの緊張感。とてもじゃないがリンクできないです。(【追記】(2007年4月)と、思ったけど、「赤いスカート splatter punk」http://web.archive.org/web/20040803023425/http://d.hatena.ne.jp/Ririka/を見てくださいませ。)

先ほど見たらコメント欄を一時廃止するみたいですね。確かに他者のコメントに応対している場合ではありません(本筋が進むのを望むぞ。曲がりくねってもいいから)。過去のコメントを保存させていただきました。

「有終の美」かそれとも・・・。

ああいうの媚びていると思う?私には絶対そういうふうに見えない。媚びた文章であそこまでできないよ。たぶんね。

「仮綴じ」の主題は「自分の生を費やす価値のある対象を見つけること」だと私は思っています。日記はその手段の一つ。コメント欄をつけたのは、関心空間の日記の反省もあると思う。そして意味ある対話が自分を高め、自分の方向性を指し示してくれるのであれば、対話のコストも受け入れる、という感じかな。

コメント欄の駄目な書き込みとかを無視できなかったのかな。駄目な書き込みに対しても誠意を尽くしたコメントで返していますよね。閾値はありますが。その閾値設定がが辛さの原因なのでは?って思います。誠意を持って対応する、というのは戦略です。この戦略はそれなりに使える。ただ、閾値をどうするか?が問題だと思う。私的には「仮綴じ」作者がもう少し閾値をあげても、大半の読者はわかってくれると思うんだけどね。

コメント欄って難しいな。ある程度深い主張は自分のサイトで書いて、コメント欄に「あなたの文章を読んで触発されたので良かったら読んでください。 URLはここ。」みたいなのがいいと思うんだけどね。書く側は相手の反応を望むとしても、レスポンスを強制できる種のものではない。コメント欄だってそういうものだとは思うけど、日記を書いている人は、やはり無視しづらいものだと思う。無視したくても無視しないのは自分と相手以外の第三者が見ていることを信じているから書ける。大勢の第三者の理解の役に立つならコメントする価値もある。コメントには良いコメントと悪いコメントがあって、相手の問題視している一番のところを気がつくかどうかがまず最初のキーである。そして、それを敢えて外してコメントするのもありだし、真正面から考えるのもありだと思う。敢えて外すにしても、自分が問題点を理解していることを示すのは、相手から自分の価値を認めてもらえるのには役に立つ。もちろん信頼を得るには、真正面から考えて問題の適切な切り口を示すことが必要だと思いますが。

瑣末なつっこみや補足はコメント欄でいいと思います、念のため。

「少女失格」で「試す」って言うのがありますね。あれを普通に文章中で実践しているところが凄い。私も少しはするけど、とてもあそこまでできない。というより、とてもじゃないけどわかりきれません。いくつものレベルのものを織り込んでいるときもあるみたい。どこにコメントするかで相手を測る。

メリットとデメリットの比較。
外乱を受けやすい弱さと脆さ。
自分の力に対する自負(自信)と
過去の偉大な人たちへの敬意と絶望的な距離感。
「他者と自分」の無知や配慮のなさへの苛立ち。
自己への帰着、それが楽だから? 
ちゃんと知識をつけてから話して。
もっと真剣に考えてから話して。
私の価値以上の、
もしくは私に準ずる価値を見せて。

とにかく読んでいてとっても面白かった。記念にいろいろ書いてみた。全然まとまってないけど。まとまっていないのがmemoらしいからいいか。