自己愛って何かな

id:automate_tomo:20040323#1079972565より引用。

何故、我々は言い訳をするのだろうか。何故、傷つくことをおそれ、防壁を築くのだろうか。何故、他人から必要とされたい?何故、このように自己表現をしては共鳴を得たいと思うのだ?何故?何故、創作を続けるのだろうか?本当のナルシシスト(自己陶酔者)は少ない。ナルシシストは容易く傷つかない、他者の共鳴を求めない。我々は自己愛者であるからではなかろうか?

id:automate_tomoさんの言う「自己愛」の内容に関しては同意します。我々は傷つくことを恐れ、恐る恐る相手に近づく。必要とされたいと思いつつ、それを直接は言いだせない。

たぶん、私がすぐに頷けないのは自己愛という言葉が持つ語感がid:automate_tomoさんとだいぶ違うからではないかと思う。

私の語感からすれば、他者を思いやるのも自己愛だって言うのは変な感じだ。他者のことを大事に思い、相手のことに対して真摯に付きあうことを、普通は自己愛とは呼ばないと思う。「相手の事を大事に思うことと」と「自分の事を大事に思うこと」とは、本質的には切り離せない。でも、普通の会話などでは切り離す。例えばAさんが自己満足のためにBさんを助けたとしても、BさんはAさんに対して「自己満足で助けたんだから感謝する必要はない」と思うのは変だ。

自分がいて、相手がいる。行動の理由が、自分にとってプラスで相手にとってはゼロorマイナスというのは自己愛と読んでもいい。でも自分にプラスで相手にもプラスになる場合は?自己愛の要素があるにしても、相手を愛する[大切に思う]要素もあるってことだ。id:automate_tomoさんは自己愛に「相手を愛する要素・相手を大事に思う要素」を繰り込んでしまうのだと思う。それがid:automate_tomoさんの世界[あるいは世界の認識の仕方]なのだと思う

「相手へのやさしさ」も「自分の心が傷つきたくない」という「自己愛の一部」って言うのがid:automate_tomoさんの考え方だと思う。ある意味突き詰めればそうなのかもしれない。この考え方も納得はできる。でも、私はそこまで突き詰めなくてもいい気がするのだ。「これは相手のためにやったこと、相手が嬉しく思ってくれればいいな」でいい気がする。もし、こういう考え方に欺瞞を感じるのなら、せめて「相手の心のことについて繰り込まれた自己愛」というものに自信を持って欲しい。卑下した使い方をしないで欲しい。「所詮自己愛だ」なんて使い方はしないで欲しい。卑下した意味合いでid:automate_tomoさんは使っていないかもしれないけど、自己愛という言葉はやはりマイナスのイメージを持っていると思うのだ。

文章を書くとは、他者を自分の文章の中に繰り込んでしまうことなのかもしれない。「文章を書くということ」と「id:automate_tomoさんの世界観」とは類似している。繰り込んでしまうと、どういうことになるか?それは世界で悪者は自分しかいないって事になるのだ。苦しいのも悲しいのも悔しいのも憎いのも全部その元は自分ということになってしまう*1。それはとても苦しいことである気がする。



・・・あぁ、もうわけわかんないや。書いていて違和感がある。id:automate_tomoさんにとって自己愛以外の愛ってどういうものなんですか?愛とは全て自己愛ですか?「防壁を作りながら相手に近づく」とかそれらの比喩は全て納得できるのに。それらの比喩や説明と「自己愛」という言葉の語感がしっくりしない。他の愛・・・、母性愛とかは愛する対象が裏切ることはないわけで自分が傷つく恐れはないかな?

・・・まぁ、「自己愛」という言葉はともかく、言いたいことは多分つかめていると思っています*2


誰か愛についてわかりやすく教えてください*3

*1:逆に幸せにもなれるんだけどね

*2:いきなり傲慢!

*3:何とか落ちたかな?わざとなので突っ込み無用です。

こういうのって続かないもんだ

2001/02/04<一人ボケツッコミ劇場1-モラル->
何気ない言葉使いが、その人のモラル示しているんですよぉ。
…モラルって何だろ。
少なくとも、あんまり大声で言われると嫌になる。 

「モラルが大事」って言わなければいけない時点でもう駄目なのかも。人を殺さない、人を傷つけない、人のものを奪わないとか、基本的なこともけっこう難しいかも。

2001/05/06<一人ボケツッコミ劇場2-珈琲とエネルギー->
最近、珈琲がエネルギー源になってますね
…エネルギーって何だろ?
少なくとも…、無理やり保存しておきたい人が多い

うまいコーヒーが飲みたいぞ。

あまーい話

2001/03/18<たとうるならこんな気分!>
コンデンスミルクに水飴を混ぜて飲んだような気分だ。
ぎゅーっつっと濃縮した毒獨感に満ちている、
といっても過言ではないといっても過言ではない。

そう、1番いいのは気にしないことだ。
ったく。もう。はぁ。ぐぎゅぅ。

濃い文章を読んでいるときの独特の快感ってありますね。水の中で息を止めているような感じと言うか。ダイブするっていう表現もあるかもなぁ。たまに水面に出て、息をはぁはぁさせるの。

ア・カペラ(DOYO) ASIN:B00006ALZG

「やさしいじかん:どんぐりころころ〜ぶんぶんぶん〜ちょうちょう〜チューリップ〜ことりのうた〜はと〜うさぎとかめ〜かたつむり〜こがねむし〜ぞうさん」の最後が全部の曲を少しずつあわせていって面白い。

広谷順子の声がいいです。

なんか童謡って「懐かしいスイッチ」を押してくる。そんな過去はないはずなのにね。

『心の仕組み(上)』

だいたい1/6程度読んだ。通学中だけしか読まないことにしたので一週間はかかるかも。『アナロジーの罠』のコユイ感じと比べて平易で読みやすい文章。まぁこれから変わるかもしれないけど。内容も面白い。続きも注文しようと思う。

自己愛(まだ考え中)

自分のことを嫌いとか好きとか難しいな。どうも判断しづらい。好きな要素と嫌な要素が混在している。まったく同じ自分がもう一人いたら自分はその人を好きになれるかな?それとも憎むかな?どうだろう。

自己を愛さずして他人を愛せない。
id:automate_tomo:20040324より引用。)

自分というもの軌跡にどうしようもないほど愛着を持つというのもあるんだけど・・・。「自分を愛している」ってやっぱり私は言いづらいんだ。自分に対しても(他者と同じように)愛と憎しみが混在する気がする。混在しているなら、「愛している」、って言ってもいいのかな。ただ、「愛」だけではない、と思う。

自分でさえも愛せない自分を、他人の誰が愛してくれるのであろうか。

けっこう重い言葉。どっちにしろ、「自分を好き」って私が「言う」ためには、私が今まで生きてきた過程で自分にかけた多重のプロテクトが解除されないとだめかな。もしかしたら、ある瞬間、「自分が好き」って言える時があるかもしれない、とは思う。その時、他人を心から愛せるかもしれない。そのとき、誰かが私を愛してくれるかもしれない、と少しだけ思う。・・・誰かが愛してくれるから、自分を愛すことができて、他人を愛することができるのかもしれない。

『映画に毛が三3本!』(黒田硫黄)で

モテないのは愛される能力が足りないからではなく
何かしら愛する能力が有り余っておるとモテる
のではないか

とあった。どうなのかな?ん、あんまりつながらない引用かな。ちょっと思い出したので。