叫び

こんな文章を書かせる衝動も私は文章に封じ込めることができた。でも、そんな感情・衝動も今では懐かしい。そして同時に思い出せないことがとてつもなく哀しい。再公開にあたり少しだけ修正しました。

2001/12/30<歩き続けるということでしか  存在の軌跡と奇跡は見えないから>
自分が嫌になっても、
他者を羨み妬んでも、
楽しいことなんてないし。
ただ、それが心の平穏につながったりするんでしょう。
嫌ですけど。
否定したいですけど。

自分が馬鹿だって知ってるから、
他人から馬鹿だって思われたって、どうってことないし。
とか、自嘲的な台詞も自分的にむかついてしまうし。
こんな言葉を思いついてしまうだけでさらにむかつくし。
鏡の中の無限の連鎖が自分を無化し、
ただ最後に観察している視点のみ残る。

はっきりいって、頼まれるからやるだけです。
誰が頼まれないのにやるかっての。
楽しいことはいくらでもあるけど、
それが充実しているとは限らないけど、
それが自分に嘘をついているって、
自分の体と思考を擬似的に騙して、
そして、
何も得ないで。
それは何かを得たっていう幻想よりましだと思うから。

よくいいますよね。
「私なりに精一杯がんばったって」
でもさ、直前だけ、
そのときだけがんばるなんて
たかが知れてるわけなんだし。

またひとつ自分を騙して。
ずっとだまして。

「何を得た?」
「何を失った?」
だからそれは決着済みだって。

どうせ虚偽と虚飾に基づいた信頼なら壊れたってしかたがない、
っていう分別ならある。
何かの為って自分をだますのは疲れるじゃん。
「だからもういいの」

虚無とともに
小さな薄緑色のまどろみを率いて、
渦巻くつむじ風が心を通り過ぎるように
目を瞑り、世界を優しく見守る存在をひとまず
想定してみたりして、
永遠に嘘をつき続ける。
そうすれば、閉じたその系では
真実という虚構を保つことができるから。

「あなたは仕事が鈍いの」
「恨まれることが怖くて、
評価なんてできるわけないじゃん」

眠りが安らかな生を見守ってくれるように。




肯定もしない代わりに
否定もしない。

そんな小さな馬鹿げたどうしようもない拠所。

「罪なんか憎まずに人を憎みたい」
それが人間らしさだと勘違いしている自分を肯定したいから。

そして許されるという幻をみて、
安堵している自分を叱咤して、
一人、歩き続けよう。
それが、自分を明確にする。

明確になったからいいことがあるというわけではない。
でも、しかたないからそんな言葉を使うけど、
それが誇りだから。

歩き続けるということでしか、
存在の軌跡と奇跡は見えないから。
ちっぽけな自分を支えるには
ちっぽけな誇りで充分だから。

ただ、あの人のために、
それは過去の人だけど、
過去の過ちを否定するために、
過去の過ちをプラスにするために
もう少し、
そう、もう少しだけ
生きてみようと思う。



いつも言っているでしょう。
「あなたの体は生きようとしている」
たとえ心が生きようとしなくても。
どちらも正しくないしどちらも正しい。


「唱えよ呪を!唱えよ祝を!」
「古き束縛を解き放ち
 新たなる束縛を作るため」
「やさしさを克服して」
「かなしみは受け入れて」
「絶望はいつでもそばに」

そして、
私は
眠ってしまうでしょう。
途中で。

でも、
それが
私らしいんじゃないかな。
誰も認めてくれないけど
自分だけ認めてあげる。
だれも認めてくれないから
自分だけ認めてあげる。



そう、今わかった。
こうやってバランスをとるんだね。
言葉は軽いから
たくさんの言葉を必要とするけど、
脳は賢いから
ほほえましい寝顔とともに
苦しみを!悲しみを!喜びを!願いを!嫉妬を!
氷解させてくれる。


緩やかに眠りに落ちていく自分を
一番残酷でやさしい自分が、
何もいわずにそっと、
崖の上から自分を
突き落としてくれる。

そして最後に言うんだ。

「ありがとう私に関わったみなさま」
「ありがとう何よりもかけがえのない自分」
「かけてしまったら自分じゃなくなるから
 当たり前だけど」
「ありがとう、私が神様よりも尊敬している人」





「哀しみのための涙なんて私は絶対流さない」
そんな暇があるのなら、次の符を打ちましょう。

「殺されてしまった人は哀しむかしら」
「殺されてしまったら哀しむことはできないかしら」

私が殺した“あれ”は死の瞬間悲しんだかな。
そんな刹那にいろいろ感じるかな。

「一瞬は永遠になるって嘘ばっかりだ」

「自らを…」
「呪いたくないから…、蔑みたくないから…」
「卑下したくないから…、誇りを持っていたいから…」
「それが理由ではおかしいですか?」


「それが動機ですか?」

1番むかつく自分は1番近くにいる。
多分私とそっくりな自分がいたら
私のことを大嫌いになれたと思う。
でも私は私だから私のことを私なりに嫌いじゃない。

たまに、自分という存在を俯瞰してみたくなる。
上から見て1日の自分の軌跡はどうかな。
1年を考えてみれば、それは単調な往復の繰り返し。

ただわずかな微分に夢をたくし、
極小と極大の折り返しをもって
罪を測りながら絶対値を取って積分する。
マイナスはプラスに変化し、
イコールは雑念を消去する。

「悔しい、憎い、チャラにしたい」
そんな子供じみた欲望を、
そんな笑いに満ちた躊躇を。
なぜ、そこまでして、繕うの。
同じ人と長い間付き合いたくない。
それはぼろが出るから。
そこまで演技ができないから。
でも、相手はいつもこう言うの。
「君のことはお見通しだよ」
「うそ!」
「うそじゃない!」
「うそうそうそうそ」

無理やり、これは等身大の自分だよって見なして
背伸びを忘れる。
綺麗なのっぺりとした仮面をかぶり
ささくれ立った指は手袋で隠す。

「嫌だ嫌だ、ひっくり返してしまいたい」


「もういいよ」
「だからもういいんだってば」
そう、無理やりに言葉を操らなくても。
たぶん、大事な人が死んでも私はこんな感じで
言葉という実質ではない世界に閉じこもって
哀しみを遮断し、次への符を打つことを考える。

身代わりは所詮身代わりでしかない、
不足を補うのは無理でございます。

では、そのためには?
実質を増やす。
満ち足りてみる。


でもね、結局私は
言葉を操るのが好きなんだろうね。


もう心の叫びは収拾した?
まだ?もう少し?
いくら言葉を費やしたってだめだと思うけどな。
だめなんだから。
そうだよ。だめなもの諦めるのが大事だよ。
勝てなくても。

だめだめ!
受け入れることなんてできない。
否定したい、否定した。
それは事実です、嘘です。

さようなら今日の自分。
こんにちは今日の自分。
そしてまた会うことはないけれど、
昨日の自分はどこかにいるのでそれなりに大事に
思って生活しようと思う。