祈りの作用?

少し前のコメント欄にid:chieko_sanさんという方が「祈り」について書き込んでくれたので、もう少し考えてみることにしました。はじめに言い訳をさせてもらいますが、私は祈りにたいしてとくに主張があるわけではありません。だから書くのは祈りにたいする雑感みたいなものです。だから箇条書きで書かせてもらいます。

はじめにid:chieko_sanさんのコメントを転載しておきますね。

私にとって祈りは「自身と向き合うため」にあると言えます。自分がどうあるべきか、どう進むべきか、自分とは一体どういう人間なのか、そういうことを求めるのに祈りの言葉は非常に便利なツールである、と思います。これは「自分の意志を言語化、文章化する」行為によって得るものよりも、もっと深い内側に目を向ける事ができると私は感じています。但し、もっと現実的な効果を感じることもありますし、それに祈りというのは信仰の対象や形、言葉によってその効果や目的は違うと思うので、これが一般的な祈りの目的、効果なのか、といわれると定かではありません。

  • いきなり突っ込みを入れさせていただくとすれば、「自身と向き合うため」にやるのは瞑想(meditation)ではないでしょうか?私は祈る(pray)という言葉は、「神に祈る」とか「無事を祈る」というふうに、人知を超えた存在を想定していることが前提であると思います。祈りの状態から瞑想の状態へは比較的移行しやすいとは思いますけど。
  • 「祈りの言葉は非常に便利なツールである」というふうに書かれているところを見ると、祈りのさいの言葉を重視しているのでしょうか?南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか。言葉を繰り返し唱えることでもある種の特別な(普通ではない)精神状態へ移行することが可能であると思います。
  • 祈りでは一途に同じ事を「願い」続ける気がします。瞑想では思考が深いところへ潜っていく時もあるし、ランダムにいろいろわけのわからないことを考えることもある。瞑想は、普段気がつかない自分の心や身体の声を聴くためにするのかな?って気がします。
  • 私は不可知論者というより無神論者に近いです。祈りというものを私はわかっていない気がします。でも、祈る人はたくさんいる。だから、「どうして人は祈るのか」という問題は気になります。
  • 信仰のことはよくわかりませんが、祈るにはそれなりの手続きというか姿勢というか、身体の動作があります。例えば両手を組んで顔の前に近づけ親指を軽く額にあてるとか(←私の祈り姿勢)。まぁ、どんな姿勢でも良いのですけど。そういう体勢とかが精神的・肉体的にリラックスすることにつながるのではないかと思います。
  • 言葉や姿勢・動作を用いて特殊な心身の状態になれる、という効果があるのでしょう。
  • 瞑想とかで間違った答えがでてくることもあると思います。
  • 「自分の意志を言語化、文章化する」に関して。言葉は伝達のためにあると思います。意志を忘れないようにするために言語化するのだと思います。自分の過去から自分の未来への伝達。もちろんもとの意志とは違うものになるのだとは思いますが。例え深い思索をすることができたとしても、言語化されなければすぐに消えてしまうかもしれない。
  • 祈るのは「人知を超えた存在に対して加護を求める」ことだと思います。加護って言ってもいろいろ種類があって、「直接援助して欲しい」というのもあるだろうし、「超越者に自分を監視してもらう」とかいう要素もある気がします。「もっと深い内側に目を向ける事ができると私は感じています。」というのは超越したものの存在を想定することが「深い内側」へ誘うと言うことでしょうか。
  • 「一般的な祈りの目的、効果」に関して。全ての祈りに共通する要素があったら面白いと思います。アルファ波が出ているとか(笑)。現時点では私にはよくわかりません。これからもわかる自信はありません。「心身の安定」だけではちょっといい加減すぎますね。何も言っていないのと同じ。ただ、心の中だけの問題ではなく、身体の問題を忘れてはいけない気がします。祈りには整調作用があるはず。

書いていてなんだか前よりわからなくなった。まとめればもっと文章は短くなりそうですけど疲れたのでこのまま。元気が出たら、もう少しわかりやすく書き直すかもしれないです。


「祈り」についてはid:fujisawamasashi:20040516#p1とかhttp://www2.odn.ne.jp/~han52740/ns/memo/memo0404.html#m20aでも関連するかもしれないことを書いています。参考までに。