彼の話を聞いていると疑問点がいくつもわくけど、
その疑問点を口にすることを私は無理やり押さえ込むの。
「彼の話の行く先がどうなるか?」
のほうがさらに面白そうで聞いてみたい、という感じかな。
話の腰を折りたくなくて、その先のものが見たい。
かろうじて、相手の言葉のつながりは理解できる。
そんな私の知性に感謝してしまう。
疑問点に関しては自分で調べればなんとか調べられるけど、
彼の哲学(または世界観)を聞くためには
現時点では相槌を打つのが一番よさそう。
ちょっと自分の至らなさを感じて悲しいけど、
相手に話させる力はあるわけだから卑下するほどじゃない。
もちろん自分の理解の線が切れそうになったら聞きなおさないと駄目だけど。
魅力的な人との会話はカスケードシャワーのうちの
一筋の線だけをたどっている気分になる。
どこで分岐してもとても大きな広がりを持っているのだろうけど、
本筋がやっぱりみたい、という誘惑。
疑問点を持ったところの話も聞けば
十分面白い内容が出てくるとはおもうけどね。
洗練された言葉。背景には膨大なものが存在することがわかる。
私は実際の背景を知らないけど
彼の言葉が重みを持っていることが感覚的にわかる。
圧縮された言葉が展開されずに私の前を通り過ぎる。
未練がないわけではない。
でも、彼が話したいことを聞くことが
私にとって一番価値があると私は信じている。
ちょっとした疑問や、私なりのコメント
(パラフレーズ、具体例、反例、拡張、隠された前提の指摘)は
私が相手の話についていけることを示すため。
応答のすばやさや指摘の的確さが私の理解力を示し、
相手の知性をさらに引き出すことは体感的に知っている。
「相手を理解する」とはどういうことなのだろう。
心というネットワークの一筋を辿っていくということなのかも。
カスケードというよりやはりネット(網)かな。
一つの筋道をたどっていく行為。
「学問は網の目のようにあちこちがつながっている。
そのなかで『筋道を立てて教える』ことは一本の筋をたどることでしかない」
と物理学者の江沢先生は言っている。
「学問には王道しかない」とはどういうことかな?って考える。
「彼の存在は私という存在を織り成す糸」、・・・なのかもってこっそり考えて、
「私の存在は彼という存在を織り成す糸」、・・・なのかもってふんわり微笑んで、
私は心地よく眠りにつくことにする。