そもそも面白いとはどういうことなんだろう?

何を面白いと感じるかがその人をあらわす?

最近の「仮綴じ〆」は最高に(←というような形容詞を軽々しく使うべきではないけれど)面白いと思うのですが、こういうのって、どれだけの人が面白いと感じるのかな。

そもそも私がこれを面白がっているのも謎だ。私って別に哲学とか知らないし、ポストモダンとかも知らないし。せいぜい、『知の欺瞞』『アナロジーの罠』とか読んだくらい。あと、物理素養があるけど、直接関係はないし。

20040907#p2とかでの引用部分の太文字で書いているフロイトユングラカンフーコーデリダレヴィナスハイデガーへの言及部分なんて痛快です。と言っても私は背景をよく知らない。背景を知らない私を痛快に思わせるんだから書き方がうまいのだよね。

20040824#p1あたりから始まった、「ほんもの」を巡る思索は興味深い。こういう問題設定の仕方があったのか、ってびっくり。

メタ視点に移行できることがわかったわけですが、また「ほんもの」自体を問うようになるのか?とか、続きに期待してしまいます。メタとは言っても上の段階で「ほんもの」を問うているだけにならない?・・・とか(←わざとはずしているので突っ込み無用)。

ポストモダンの可能性」とかも言及していて、「ポストモダンに病んで/夢は枯れ野をかけめぐる。」(山形浩生http://www.post1.com/home/hiyori13/cut/cut200007.htmlとかを思い出してしまった。引用しておこう。

でもそれならぼくがぜひとも読んでみたいのは、こうしたこけおどしの濫用科学用語やレトリックをすべて取り除いて翻訳した、各種「ポストモダン」思想家どもの文章だ。いったいそこには何が残っているのだろうか。あの葉っぱの散り落ちた枯れ野には、実は本当に美しい花がひっそりと咲いていたのかもしれない。できることならぼくはそれが見たい。でも、かなりの確率で不毛の荒野に出会うだけのような気がして、まだこわくて見ていない。