家事分担のバランス感覚というかギブ&テイク?

http://d.hatena.ne.jp/fujisawamasashi/comment?date=20041110#cを見てもらえばわかりますが、ある程度有名なサイトからリンクされるとたくさんアクセスがくるのですね。私のサイトから他のサイトにリンクしても3人くらいしかいかなそうですが。まぁ、マイナーサイトがいいです。好きなことをあんまり推敲しないで書いていますし。

私は妹(←現在大学院生)と二人で生活初めて5年目になります。共同生活というか誰かと同居している場合には家事の分担が必要になります。仕事の種で分担してもいいし、交代でやるのでもいいですし。種で分ける場合にはその仕事のわずらわしさが同等になるようにしなければいけませんね。でも、お互いがそれぞれよいバランスで仕事配分がなされている、って思っているのでしょうか?完全に同等なことはないですけど、その偏りが互いに無視できる程度であれば問題ないわけです。相手がある程度以上サボったら注意して、もっとサボったら怒るというふうになっているはず。どちらかが怒るような状況は互いに好ましくないわけであって、お互いのためにも割り当てられた仕事をちゃんとしようと思うわけです。

たとえば、どちらかの職場での仕事が忙しくて、家事がおろそかになってしまうときもありえますね。そういうときは相手に借りを作ることになりますね。仕事が忙しくないときに借りを返せばいいわけですし、相手が忙しいときに自分が多めに家事をやってもいいわけです。その貸し借りが手軽にできる人間関係を親しいと言うのでしょうね。信頼関係があるから貸し借りができる。

さて、仕事内容自体は「家事」だとしても、片方しかその利益を享受しない場合は「家事」ではなくなります。たとえその利益にちょっと興味があっても、その仕事をしたくないから、興味を持たない振りをしたり、その利益(と仕事)に関与しない、という選択肢もあるわけですね。

あの記事では新聞です。「たかが新聞を束ねて捨てる手間ぐらいどうってことない」と普通は思うじゃないですか。その手間を面倒だと感じて(自宅では)読みすらしないところが面白い。

書き手が"堆積"した新聞に対して、観察・分析をしているところも面白いですね。「1紙しか取ってない家は、1年分でもこんなにないんだなーとか、しみじみ見つめゃいました」とか「閾値を超えたってこういうことか」とか。そして、捨てるきっかけ。それがくると怒涛のごとく作業に没頭する。そして片付けたあとのオチ。「溜まった家事が解消される」ことを心理描写を交えて書いてあって面白かった。

「新聞を捨てるのにどんだけかかってるんだ?」というダメダメ感と、同居人の意表をつく告白に対する不信感とが合い混じってなんとも生活感あふれる文章で面白いと思いました。


http://homepage2.nifty.com/suzuki-kunie/diary0411.html#11に追記がありますね。

でも不思議なのは、この10か月間、「捨てたら?」と1回も言ってこなかった同居人だ。ふつうは2〜3か月くらいのところで言うんじゃないかと……。忍耐強いのか? それとも単に気にならないのか? もしかして、この嫌味を言うためだったのか? だとしたらすごいかも。一緒に暮らしてきた甲斐もあろうというものよ(ホントか?)。

同居人さんの日記は読んでいないのですが、「気にならない」のではないかと推測。ついでに、「わー、広くなった。ありがとう、部屋を作ってくれて」も嫌味の意図はあまりなくて純粋に広くなったことを喜んでいるのではないでしょうか?でも嫌味の意図がない嫌味のほうがパンチ力はあるけど。


でも、改めて考えて2紙10ヶ月分はすごいな。要塞かぁ。・・・ちょっと見てみたいかも。

そういえば、最近新聞読んでないな。購読を止めたのはいつごろだろうか。

うちの場合だと、リサイクルのために牛乳の紙パックや、魚や肉が入っている白いトレイは普通のゴミと別にしてあるんだけど、なかなか出しにいかないのでどんどん溜まっています。特に牛乳パックは切らなければいけないところが面倒だ。