『こさめちゃん―小田扉作品集』(小田扉)

こさめちゃん―小田扉作品集 (KCデラックス (1388))

こさめちゃん―小田扉作品集 (KCデラックス (1388))

『スミ子の窓』は、面白い。ジーンときた。でも、他人に「これは面白い」って勧められるか微妙。もちろん、私と面白さを似たようなところで感じると知っていれば勧められるけど。

人は感情をうまく(言語などで)表出できない。『ナ・バ・テア』(森博嗣)ISBN:4120035417を書いてあると感じたけど。

215ページのスミ子が花子を殴った後のスミ子の表情。憎しみとか悲しみとかそういうのがない。「あれ、なぐっちゃった」って感じというか、自分でも何で殴ったのか理解できていない表情。すごいと思う。

「自分で意識できる明示的な意志」以外のものが人の行動にどうしようもなく影響を与えるという事実。意志が支配できる領域をできるだけ増やそうって思いたかったときがあった気がする。でも今は・・・。

人と人とは人の明示的な意志ではどうしようもないところでつながっている気がする。血の絆も然り。私はそこが長い間理解できなかった。存在すら気が付かなかった。へんなこというとそのどうしようもない人をつなげる力によって苦しんだり悲しんだり嬉しかったりするのだという気がした。

相手が間違っていると思って、一生懸命論理的に説明して自分の考え言う。それは自分のことをわかって欲しい、ってこと以上に相手に幸せになって欲しいから。でも、意志を変換した「言葉」には欠落した情報がたくさんある。その言葉だけを聞いて相手が望むものを知ることができるとは限らない。合理的ではない、と言って私は多くのものを切り捨ててきたと思うし、それは私の非合理性から生じたことである。

なんか言い方が難しくなってしまっているけど、あんまり難しいことを言いたいわけじゃなくてたぶん多くの人は知っていることで当たり前のことで敢えて口に出す必要もないことなんだと思う。たとえ話をしよう。おなかが減って減って仕方がないときに、見知らぬ他人がご飯をおごってくれたとしよう。そのときに、もし自分の目の前に飢えた人がいて相手にご馳走できる立場にあったとしたらおごってあげようと思うこと。別に食べ物ではなくてもいい。つらいときに相手の話を聞いてあげることでもいい。互酬性とか難しい言葉を使う必要なんてなくて。


『としごろとしこ』は不条理だけど(←小田扉漫画は不条理が基本)、可愛くて微笑ましくてでもちょっとだけ真理を突いていてなかなか面白いです。

茶店に行く理由がおかしい。31ページに

だってミルクの容器がマヨネーズのキャップなんですよ。

こないわけにはいかないじゃないですか。

そりゃぁ、こないわけにはいかないな(笑)。

『としこ困る』では魍魎のハコを知っていると楽しめるかも。

『話田家』ですが、なんなんでしょうね、このリアルで絶妙な「間(ま)」は。エピソードの見せ方がリアルな感じ。小説になくて漫画にできる一番すごいことは「間」だと思います。コマ割というべきかな。あんまり多くの小説家の作品を読んだことはないのですけど、小説で「間」をみたことはありません。でも、漫画にはそれがある。動画作品は自分の速度で見ることができないのでよくわかりません。小説でも漫画でも読者の読む速度の操作(「律速」?)ということをけっこう考慮して作家は創作しているはず。面白かったです。お兄さんが生活能力ないくせに理屈っぽいところがいいですね。長女は現実的だし。