「[はあ?]理不尽な主張や強引な要求をするとき、邪魔になるのは」

http://150.55.136.37/d200604.htm#414に面白い記事。引用したり、思ったことを脈絡もなくつらつらと書きます。

リスク・コミュニケーションと科学の方法との混同、 論理のレベルの混乱が見られる。 米国の手法も日本の手法も同様に科学的であるということが理解できていない。 結果を元にどのような行動を選択するかという問題なのだ。 これは科学ではなく倫理学の対象である。

一般的な理系学生が、学部卒業までに身につけることができる「科学的な見方」ってどれくらいなのかな?って思う。私は修士論文書いたり、学生実験のティーチング・アシスタントなどをしているうちに少しずつ身についてきた気がする。もちろん、私の「科学的な見方」というのはそんなに優れた見方ではないかもしれないけどね。私の場合、実験物理学を通して得た「科学的な見方(物理学的な見方というべきか?)」であって、他の自然科学分野とはことなる科学観であるかもしれない。

リスクに関する考え方は、ディベーターさんたちにとっては当たり前のことなのかもしれない。ただ、ディベーターさんたち全てが自然科学の素養を持っているわけではない。討論を聞いていると、決断すべきことにあわせて評価をできているのかな?ってたまに思うことがある。

リスク・コミュニケーションという言葉は一般的なものであるのだろうか?私は中西準子の本をいくつか読んでやっとその片鱗を知っているだけ。周りの理系の人もあんまり意識はしていない気がする。説明するとだいたい、「そんなの当たり前」って感じの反応だけどね。ただ、意識していないと適切ではない言説に、突っ込むことは難しいんじゃないかなって思う。なんとなくおかしいと感じても、どこがおかしいのかを指摘するのは難しい。

普通の人は「倫理学」ってどういうものだと考えているのかな。私は以前、倫理学の本をいくつか読んだから、どういうふうに使われるかを少し知っているけど、もし私があのような本を読んでいなかったら?他の経路で今のような考え方になっている可能性はあったのかな。

はっきり言って、これが日本のオピニオン紙の「感想文」かと思うと、 リテラシーレベルが低くて同じ日本人として恥ずかしい。 人をだますつもりの胡散臭い言説と同様に、 一般紙のまじめな意見の中にエセ「科学」が混じるのも問題だ。

「同じ日本人として恥ずかしい」って言うのはどうなのかなぁ。そこまで厳しいことを言わなくてもと思うけど。あらきさんの文章をある程度理解するために必要な知識って少なくはないと思う。私がそれを得るために要した時間と労力とは消して少なくないし(私が無能なだけかもしれないけど)。妥当な言説を作ったり欺瞞を見破るための知識や論理力って簡単には身につかないものだと思う(もちろん、全ての能力と同じで、適性はあると思うけど)。これらの能力があれば、相手に対して優位に立てる。理不尽な要求を突っぱねるための理論的な武装ともなる。とても価値がある能力だと思うけど、その技能の重要度や緊急度はどれくらいだろう?私には、「その能力は必ず持っているべきだ」とは言えない。

組織のリーダーとなる人たちには、これらの能力を持っていて欲しいと思う。牛肉の輸入再開の問題で良いコンセンサスを作ることができる能力は、他の単純に白黒つけられない多くの問題を考えるさいにきっと助けになるから。

「日本人として・・・」って書いてあるので「日本人以外はどうなのかな」って少し思った。そういうことを知るためには、海外の雑誌とかも読むべきなのでしょうね。

「日本人として・・・」という言葉は私はあんまり使わないかな。同朋意識や所属意識が少ないのかもしれない。

リスクの管理とかが言われ始めたのはそんなに古いことではないし、これからゆっくりと浸透してきて欲しいと思う。