価値があるものに対しては価値があるって言う。
価値がないものに対しては、価値がないって言う。
それはあるときは簡単であるときは辛い。
そして、それはとっても大事なこと。
価値というのは主観でしか決まらない、って言う人もいるかもしれない。
そんな人には「主観という言葉をどういう意味で使いましたか?」って
私は問いたくなる。
「主観と客観の違いは?」とか尋ねたくなる。
そもそも価値とはなんだろうか?
そもそも意味とはなんだろうか?
価値があるには少なくとも関係がある必要がある。
意味があるには少なくとも関係がある必要がある。
個々の対象とその関係。あるときは関係がその対象であるし、
対象が関係であることもある。
説明不十分かな。
でもあんまり説明する気もない。
「何が面白いのですか?」
「何の意味があるのですか?」
「どんな価値があるのですか?」などなど。
問うことにより、それらの問いの重さを知ることができると思う。
それは問わずにいるよりも、意味があって価値があって、きっと面白い。
「価値がある」って言うのを「役に立つ」って置き換えてみようか?
それって違和感がある?
「役に立つ」って言うのを「効率性が上がる」って言い換えてみようか?
それっておかしいかな?
効率性って言葉を使うなら、
役に立つって言葉を使うなら、
何か目的があるんだよね。
多分そうだよね。
明示的であれ、
非明示的であれ。
楽しいから面白いから嬉しいから。
それは脳が快感を得るためって、わざわざ言う必要あるかな。
ある場合もあるかもね。
人の振る舞いを「生命体としての人間」から出発して説明するのって、
そんなに変なことじゃないよね。
現状を説明することと、現状を肯定することは別だよね。
そういうのが分っていない人と話すのって苦痛じゃない?
話の前提を共有していなかったんだなって、徒労感を感じない?
幸せって何だろう、って思わない?
そんなの主観的なことだって思う?
でも、例えそうだとしても、幸せって人が感じるときの性質には
多くの共有する性質があるはずだよね。
飢えから脱却。できれば美味しいものが食べたいな。
できれば健康的であれば。できれば強く美しく。
暑さ寒さの回避。できればもっと快適に。
病気・怪我の苦しみをなくしたい。できれば老いすら忌避したい。
恋人が欲しいな。できれば素敵な人がいい。できればできれば・・・。
自らの望み、願い、欲。自らの価値観に従い、自分が持つリソースを配分していく。
「それには価値があります」って言うことは、何で大事だと思う?
それは、自分の信じる価値が潰されないようにするため。
「それには価値があります」って言うことが時に何故辛いと思う?
それは、自分の信じる価値を担う必要があるため。
「それには価値があります」って言うことは、何故大事だと思う?
力のない価値は淘汰されるこの世界。
価値観の相克の中で、私はある価値の継承者なのだから。
「それには価値があります」って私は言う。