『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』の感想の続き
http://d.hatena.ne.jp/fujisawamasashi/20061014#p1の続き
最後まで読んだ。最後の章では特に、作者の世界観は、私と大変近しい、って感じた。"意志"という言葉が出てきたときに、近しいって感じた。最後の最後のことは、私にとってまさに当たり前のこと。より柔軟で強力な個人主義。その当たり前のことがいかに困難か?を今まで語ってきたとも言える。この本を読んでくれる人が増えたら、私もいちいち細かいことを説明しないですむなぁって思った。そして、こんな程度のことを言うのに、こんな文章量が必要なのだろうか?と思ってしまった。これは別に悪口ではない。「説明する」動機とは、自分の周りとの摩擦を埋めるためである。gapが大きければ大きいほどたくさんの説明を必要とする。つまり作者自身と想定される読者との差を生めるために、これだけの文章量を必要とする、と作者は判断したわけだ
私にとってこの本に書いてあることの多くが、小説を読んだり自然科学の研究とかから気がついていたこと。だから、もっと精緻に言うことができる内容を何でもったいぶった言い方をするのか?とか思ったりもする。私がポストモダンとかそういう枠組みを用いないで考えたり学んだり知ってきたことを、ポストモダンという枠組みで押し付けられた気がして読みにくかったのだと思う。私は結局この時代に生きているのだから、知らず知らずのうちに似たような価値観を好んだり反発したりするのだろう。
作者は、「啓蒙なんかしようと思わないしできない」という意見だ。でも私なんかより、よっぽど啓蒙に近いことをしていると感じた。まぁ、啓蒙という言葉の定義の問題かもしれないけど。
世界観は近しい、と思っても同じような行動をとることはない。それは当然のことかもしれないけど。それは、「私自身が生きていく」ということが、私にとって大事であって、それがそう簡単ではないから、同じような行動はできない。作者には余裕があるのか、それとも・・・。たぶん、そういう価値の継承をしてしまったからだ。それを猜疑しつつも、それから逃げることができないのだろう。こういうのはとっても素敵だと思う。
でも、私はさらに現在思想やポストモダンを学ぼうとは思えない。自然科学に近いところにある思想とか哲学とかのほうが興味がある。それが私にとって強固で魅力的に感じるから。
心の拠り所をどこに求めるのかって話につながる。それはその人のアイデンティティにも関わること。・・・書きたいことがいろいろあるけど、この辺にしておきましょう。すでに書きすぎました。
追記:「その態度が存在しえる共通する土台を模索することを投げてしまうことにならないのか?」「でもわれわれは同じ人でしょう?」「この答えは結局共通する土台を要求しているじゃないか?」「『楽しいことがあるからみんなもやらなーい?』という積極的お祭り型キャンペーンより優れていると本当にいえるのか?」「多様な価値のあり方は前提であって、その多様な価値が存在しているという前提を認知させ守るために、自己の価値の主張を控えめにすることは、価値の相克の中でとる選択肢としてありなのか?それともそれでも自身の信じる価値は消えずに残るという自信?、もしくは消えてもかまわないって諦観?それが唯一の戦い方?」「『すべての人が自分自身の選択に責任を持つ』ということをすべての人が知ることを私も願う」