何かを切り捨てる強さを

  • 私は大変怒りっぽい性格だと自分でも思います。もう少し寛容な心を持ったほうが良いと常々感じております。自分に精神的に近しい人に対して怒るというのは良くないですね。
  • 客観的に、「あなたに怒る資格なんてあるの?」って感じのことを言ってくれる人が近くにいてくれるのはとても幸せなこと。そのように感じさせてくれる人が近くにいるだけでも幸せなこと。
  • 男女間の性差が生み出す力を適切に行使するというのはとても難しいことだと思います。でも、誰しもがそれと向き合います。「お互いに分かり合おうとする」とか「傷つけあわないようにする」とか、そういうことがどうでもよければ難しくないのかな。
  • 「分って欲しいと言うのは弱さ」と言うのは何回か書きました。そして、「その弱さを全面的に否定する必要もない」ということも書きました。しかし、その「解かって欲しい」と言う欲望も、その他多くの欲望と同様に折り合いをつけないといけません。
  • 価値観というのを押し付けないように行動できたら良い気がします。押し付けようと思っても反発されるだけだろうし。押し付けたいと思っても、それをやることは逆効果だからやらないほうがいいということ。でも、自分が存在してしまう、ということはどうしようもないこと。質量を持った粒子が存在すれば、周りに引力のポテンシャルが存在しているのと同様に。
  • 他者とのコミュニケーションとは情報を交換することだと思います。情報以外にもいろいろ交換することになるかもしれませんが、基本は情報です。
  • お惚気話というのにはうんざりすることもありますが、話している人が私の尊敬している人だったり、私が好きな人だったりしたら、話は違うわけですね。その人がとりあえず、その側面では幸せだということが知れるだけで、私はとっても嬉しくなります。私は自分の好きな人には幸せになって欲しいのです。
  • 私は守備範囲を狭くすることで強くあろうとしました。力のある人でも多くを守ろうとすれば綻びが生じます。私は自分の力をあまり高く見積もらないように気をつけて、決して多くはないリソースを少ない対象に投資することで、すくなくともその対象に関しては引けをとらない程度にはなりたいと思いました。現実はともかく。何かを諦めれば、別の何かにリソースをつぎ込めます。
  • いじめというのは強いものが弱いものにたいして行うことです。ドメスティックバイオレンスとかは基本は女性が被害者です。女性は現代においては未だ弱者のようです。こういう問題はいつまでたっても消えないと思いますが、なんとか軽減はできないかな、って思います。男性も女性も女性の力を過小評価している気がしてなりません。とか言っても目の前にある虐待をなんとかすることなんてできませんけど。
  • 生存競争のレースで生き残りたいなら、なんて私が言うことじゃないかな。ただ、惨めになりたくないのならそれなりの努力は必要でしょう。ただ、何を惨めに感じるかはその人の特性にもよるので一概には言えませんが。
  • 人には精神的な拠り所が必要です。精神的な拠り所といっても、実際の世界と強く結びついていますが。
  • DVなどでは迫害された女性が男性側に哀れみを感じているケースがあるらしいです。「可愛そうな人なんです」っての。そういうのを否定するのは面倒ですね。絆というのは整理整頓できるものではないのかもしれません。ただ、自分の過去と現在、将来を見つめて、リソースの投資の仕方を考え直すことは大事でしょう。
  • 「そんな単純には割り切れない」って思います。私も生身の人間だし、否定しません。というか怠惰で面倒くさがり屋でグウタラだし。
  • 自分のまいた悪い種とは言えども、何回も必要以上に言われれば私も気分を害する。相手に悪意はないことは理解できる。でも、そんな繰り返しは言っている人自身を貶めることにつながることに気がつかないのだろうか、とも思う。そして、気がついたことは、私とその人(達)との接点のあまりのなさなのだね。それに気がついたときに、悲しかった。私が相手の価値を引き出すこともできなかったわけだし、相手が私の価値を引き出すこともできなかった。たぶん、それは私の受身型の体質(性質)によるのだと思う。既存のものを批判するのは易しく、新しいものを構築するのは難しい。自分が意味があると思うこと、価値があると思うことを、しっかりパッケージ化して話せるように努力しないといけない。思いつきのままに話していては相手は理解してくれない。それぞれの知識や理解力の差はあれ、話の流れというものはきっちり作ったほうが良い。
  • 他人は他人で、自分は自分。割り切らないといけない。ただ、呼応するものがある。そういうのを大事にしていきたいと思う。