どうでもいいやってこともある 11

  • 磁性において基本的な量である磁化率というものも、磁場依存、周波数依存、温度依存などなどがあるわけで(略)。
  • つまり、物理を学んだ人の視点というのは、(略)。
  • そして、最適化問題というかチューニングに際して(略)
  • それが対象に対してうまく切り込んでいけるかどうかは対象によるし、その人のセンスに負うところも多いというのは確かである。ただ、物理素養がある人がくみ上げたものは、物理素養がある人に説明しやすいものである気がする。それは、物理素養がある人は、その物理素養に矛盾するような枠組みを作ることに抵抗を覚えると思う。自然に物理素養に反しないようなものを構築するだろう。自然に物理学の知識を援用したものを
  • なぜ基礎科学は必要なのだろうか?少なくとも、これまでは十分役に立ってきた。でもこれからもやはり必要なのだろうか?
  • あまり根拠はないけど、・・・私はまだまだ基礎科学の研究は人材と資源を投入するに値すると思う。まぁ、どれだけ投資するかというのは、その国の財政状況によるものだとは思うけど。
  • 研究は役に立たなければいけない。でも役に立つとはどういうことだろうか?
  • 私の中には、私なりの答えはあるのだけど・・・。それは・・・うーん・・・なんというか、たぶん、・・・。
  • 説明するとは帰着させること。だから、どのような相手に対して話すのか?納得して欲しいのか?によってだいぶ言い方は異なる。
  • 「fujisawaさんは何でドクターに進学したんですか?」って聴かれたことがある。それってさぁ、うーん、説明はできるよ。自分を納得させるためにいろいろ考えたのだから。でも、質問者はどこまで知りたいのかな?軽い気持ちで問うただけ?表面的な理由をいくつもあげることだってできるけどね。質問者の考え方を知りつつ、相手の理解できる範囲で答えを紡ぐことはできると思う。でも、質問者が自身の考え方を披露することなしに、私の考えを単純な説明で理解できると思うのだろうか?
  • ・・・説明することは。「私の片鱗に触れるつもりがあるんだね?」。「それにあなたの時間をかけるつもりがあるんだね?」って言い返したくなる。私の中に確固としたものがあるとしても、相手にそれを表出するのには多大な労力と時間がかかる。そして、感覚的に分っていても、きっちりとつめていくことにはやはり大変な労力がかかる。
  • 質問されると、私は、「なぜ質問したの?」って逆に問い返してしまう。だって、それを言わずに私が素で答えると相手はとても期待はずれな表情を示したりするからだ。「ふーん」って感じ。答えることにはそれなりに内省して時間と労力をかけるわけだから、がっかりされたらがっかりなのだ。
  • まぁ、私の説明がへたくそであるというのもあるのだが。身近にいる人たちには、自分のなじんだモデルを常に披露しておく必要はある。いきなり複雑なことを説明するのは双方に大変労力がかかる。普通の人間が一度に理解できることなんて限られている。
  • 例えばの話だけど、地点A、B、Cがあるとして、直線的に並んでいるとしよう。私がBからCへの話が面白いと思ってしても、聞き手は、AからBの話を知りたいと思っているのかもしれない。
  • 私は野球とかにあまり興味がない。相撲にも興味がない。国技だからって興味を持てっていうの?日本国民として?・・・なんかいらいらしてきた。他のスポーツもあまり興味がない。趣味は何ですか?って言われたらうじうじと考えること、ってなるかもしれない。
  • ・・・あぁ、ようするに怠け者なんだな。体を動かすのが面倒だから一生懸命頭で考えて、快感を得ようとしているのだ。この手の文章を書かない人は、考えて書くことが快感であることが理解できるのかな。わからない。私だって、役にたつつもりで書くこともあるのだけど。やっぱり書くことの快感がなければ書き続けることなんてできない。
  • 愚痴なのかな。新たな一歩を踏み出せないとしたら愚痴は嫌だな。
  • 私がすごい面白いって思ったことも、つまらないとか当たり前って言われたりする。そういうときはショボンとしてしまう。でも、あとで思うのだけど・・・、あとでその人の言動を注意深く観察していて思うのだけど、おまえは現時点でもわかってないだろ!って言いたくなるときがある。字面だけの理解しかしてないんじゃない?それをおもちゃに遊んでいないだろう?変数をいろいろ弄ってその安定性と揺らぎを楽しんでいないだろう?って思う。
  • 頭で考えることは快感だ。イカレタ宗教家だって、考えるのは好きなんだろう。そういえば教祖様は男性が多い気がするが気のせいだろうか?快感に感じるということは、それが適応に・・・やめておこう。知識がないことについて語るとあんまりよくない。というか文章として残しておくのはやめておいたほうがいいかもしれない。
  • たまに、思考を封じる必要があるのだ。軽い散歩とかだと逆にいろいろ考えてしまう。物理のこととかも考える。でも、そういうのばっかりだとだめ。本当に何にも考えないで体だけ動かしているような状況が重要だって思う。それはスポーツをやっている人にとっては当たり前のことなのかも。
  • 囲碁とか将棋とか最近はやっていない。やっていると頭があつくなる。頭のどこらへんが熱を持っているかわかる気がする。うっ血しているだけかもしれないけど。そういうのは面白い。
  • 大学は専門学校じゃないと思うんだけど・・・。じゃぁ、なんなのさ?って思うことがある。そういうのを・・・うーん、高校生に伝えられればいいのだろうけどね。
  • むかしより今は、大人になるのに時間がかかるのだと思う。
  • 私は埼玉県出身なのだが、大学生になって思ったことは、なんで出身地についていろいろ話すのかなぁ、って思った。どこどこ出身って話になって田舎だとかどうとかいったりね。今ならその理由も分らなくはないけど、やっぱり出身地なんてどうでもいいじゃないかと思う。たとえ分らなくてもその人の趣味とか好きな本とかの話をしてくれたほうが私は楽しい。
  • 私自身は自分のことをオタクだとは思わないけど、思われてもいいや、とは思うことがある。というより、言われたとするにしても、言った人のものを見る目、解像度などのほうが問題なのだな。曖昧模糊とした多くの事象からうまい具合に抽象概念を引き出すことができるひとっているよね。
  • 「あんたはオタクだね」っていわれたら、「あんたはオタクじゃない人だね」とか私はいいたくなると思うな。「きもーい」って言われたら、「あなたはきもくない人だね」って言うか、「あなたは『きもーい』って言う人なんだね」って言うかもね。嫌味なやつかも・・・。売られたけんかは買ってやれ、というスタンスはもうやめようかな。売られたけんかを買うのは優しさかもしれないとも思う。
  • 議論をしようかしまいか迷うときがあるのね。議論をするのは面倒なのだな、普段は。でも、しなきゃあとあと困るよな、って時は仕方なく(嬉々としての間違いではない)することもある。黙認しているってことになるのは困ることもあるのだな。判定者というか聴衆がいるってことは大事かなって思う。
  • 教育者が行うことは駄目だしなのかな、って気もする。学生がなんかアイデアをおもいついて、それを先生に見せる。先生はそれに駄目だしをする。容赦ないくらい駄目だしをする。
  • お前が「マジで」って言っても信頼性が増えるわけじゃないんだよって言いたくなるときがある。「マジで」って言うのは「私は信じています」という意味なのだよな。そして、その信じるというのは、「自分自身の知識体系にしっくり来る」ということなのだな。またはしっくり来なかったとしても、「実験的というか明示的な証拠があって、反論できない」という可能性もあるな。「マジで」というのは客観的な正しさを意味しない。「あんたのマジではその程度やね」とかね。
  • 価値相対主義者というのは・・・(どうせ愚痴なので略)。
  • 議論にはいろいろな種類がある。新しい発想を引き出すためにするものもある。コンセンサスなり妥協なりを引き出すためのもの、つまり交渉(negotiation)するという意味での議論がある。
  • 1対1で自分と異なる意見の人と議論をするのはハードだな。いくら話しても自分の言葉が伝わらないという感覚がどんどん多くなる。観客がいたほうが、観客には価値が伝わるかもしれないと思うと良い。観客は話者よりかは冷静だろうからね。
  • 私の修行が足りないのだなぁ、ってことを噛み締めるのであった。
  • こういうふうに一気に箇条書きされると読む気がなくなるだろうが、まぁそれでいいのである。下書きなのだから。
  • 法則があって、その適用条件がある。血液型性格診断とか単純に信じるくせに、なぜ、その場合分けの思考が他に行かないのだろう。重み付けの概念だって、お小遣いのやりくりを考えれば・・・(略)。
  • 私は断固として(←意味不明)夫婦別姓派である。・・・でも、説明するのは面倒だな。
  • 男(女)心は女(男)にはわからない
  • 「男ってやつぁーよー」みたいなセリフを女の人から聞くことがある。「女ってわけわかんねーよ」ってセリフを男の人から聞くこともある。
  • 同性同士で分かり合えるのに、異性だと分かり合えないことというのもたぶんあるだろう。
  • でも、そうでもないことを、性別のせいにするのは嫌だ。個人の特性を性別に帰着させるというのは嫌だ。
  • もちろん、男性的な性質・女性的な性質というのはあるだろう。男性が女性的な性質を持つこともあるし、逆もあると思う。
  • でも、分かり合えることかもしれないのに、性別のせいにして、理解することを拒絶したり諦めたりする嫌なのだ。
  • とは言うものの、分かり合うにはたいへんコストがかかるし、面倒であることも確か。理解に到達するために努力するより、諦めるほうが楽だ。
  • すれ違うのはしょうがないにしても、それはどうしようもないことなのか、どうにかなることなのかを考え続けて欲しいと思うのだな。自分の理解度が低すぎるのかもしれない。相手の表現が拙いのかもしれない。留保して欲しいと思うのだ。
  • 何らかの決定を下すさいには、仮定に基づいて判断する必要はある。でも、それは仮定であると認識していたほうが良いと思うのだ。
  • 共働きが良いと思うのは、上記のようなこととも関係がある。共働きすれば、何でもうまくいくと思っていないことは一応書いておく。そういう場合でも、どちらかが相手を搾取するようなことはある。
  • 夫婦はお互いに助け合うものだけど、どちらも自立しているべきだと思う。
  • 自分で書いていてうそ臭いな、とも思う。場合に依るだろうし。でも、愚痴を言う前に、「それを回避できなかったの?」とか「その問題はどうやって解決できるの?」くらいは自身に問うて欲しいと思う。そこで、へんな自己嫌悪ループに陥られても困るのだけどね。
  • 人は強いようで弱いし、弱いようで強い。「あなたはそれについて真剣に悩んでいるんじゃなかったの?」って思うこともあるのだけど・・・。まぁ問題がシフトするというのはよいことなのかもしれないけど。問題を撒き散らすだけ撒き散らして、その後のフォローはなしですか、って思うこともある。
  • うーん、なんというか、まぁ、人間は正直なのだろうな。願望機みたいな?言葉では何とでも言える。でも心が望むものに、行動はいつも正直なのだと思う。

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ストルガーツキイ兄弟の『路傍のピクニック』という小説に【願望機】なる機械が出てくる。未知の地球外知的生命体、まあ平たく言えば宇宙人ってことだが、彼らが地球に置いていった不可思議な機械らしい。【願望機】は人間の願望を読み取り、物理的に叶えてくれるという。ある男が、死んだ弟を帰してくれ、と【願望機】に涙を流しながら懇願した。そして家へ帰ってみると、なんと男は大金持ちになっていた。【願望機】が叶えた願望は大金持ちになることだった・・・・・・この【願望機】を巡るストレートな比喩が大好きだ。チャイナさんの願い事が叶わぬ事を切に願う。

  • 話が違う、とか矛盾してる、とか誠意がないとか、いろいろ思うかもしれないけど、諦めるしかないかなって気もするのですね。
  • 「理想論だよ」「極論だよ」とか、こういう風に言われたときにどう反応するかはだいたい決めてある。ただ、それだと面白くないだろうな、ってことも感じる。どうも攻撃的になっていけない。ゆっくりしゃべらないといけないのかもしれない。やれやれ。でも、無駄にゆっくりしゃべられるとイライラしないですか。すばやさとかだって、情報を伝えているのですよ。「確認のために一応言うけど、あなたは理解しているよね」とか「すばやく言ってもこの程度のことは十分理解できるよね」ってかんじ。もし分らなかったら聞いてね、って言うのはお互いの信頼関係があれば大丈夫だよね。
  • 病気の時はつらい。でも、治ったときは、病気になる前より気分が良かったりする。それが・・・(略)。
  • 価値がないと思うのならやらなければいいのだ。
  • みんな配慮があるなぁ、って思うことも多い。本当に多い。良い意味でも、悪い意味でも。
  • 静的であれ、動的であれ、何らかの秩序があると安心する。何らかの対称性(symmetry)があると安心する。とりあえず、もう考えなくて良いか、って不安が解消する。筋道の通った分りやすい考えがあると安心する。・・・でも、でもでも、本当にそれは解決だったのか?ってもう一度考え直してみるのも大事なことである。
  • 歩き続けることでしか、存在の軌跡と奇跡は見えないから。
  • 書いているのが逃避であるのは、もっと楽しいことをしているときは文章を書こうと思わないことからわかる。
  • 大学の研究室と研究所とでは、研究への関わり方が違うのだなぁって思うのでした。教育の問題もある。そして、予算の問題もある。「アメリカも基礎研究に力をいれはじめているみたいだから、日本も応用ばっかりじゃなくて、基礎研究に予算がつくようになるんじゃないかなぁ」って趣旨のことを某JAEAの人が言っておりました。組織や予算に関しても、昔よりも融通がきくようになっているみたいです。いろいろ問題点はあるけど、少しずつ改善されていくのでしょうね。まぁ、それはともかく仕事しましょう。