アウトプットしないと身につかない

毎日ボコボコにされれば、少しは成長できるかな。

  • もしかすると、私は人が傷つくようなことを書いているのかな、って思う。でも、それは誰かに指摘されるまでは、このまま書いていくかも。
  • 私のことを少しは気にかけてくれる人であれば、私の意見(戯言)に対して批判をしてくれるだろう。
  • communicationにおいて重要なことの1つに「間合いの模索」があるかなって思う。相手に近づきすぎてもいけないし、遠ざかりすぎてもいけない。えっと、これは「当たり前のこと」かな。
  • 相手を批判しているようで、自分自身の行動に対する反省だったり、自己卑下をしているようで相手を批判した書き方をしたりする。
  • 「場合による」とか、「成立条件を明確に」とか確かに正しいけど、それを解析するにはツールがいる。例えば、法律を考える際には倫理学が必要だったりとか。問題を見やすくするためのツール。
  • 関係ないが、『現代倫理学入門』(加藤尚武)
    現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

    現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

    とか面白かったな。
  • 少年・少女の売春はよくないと思う。でも、大人だったら?というのは最近決められない。ちょっと問題発言かもしれないけど。ある程度管理された性産業というのは、存在するほうが男女のためになると思う。その「ある程度管理された」が難しいのだとは思うけど。多くの人が同意できる「ある程度の基準」にを作るのには多大な労力を必要とするから、全面禁止ということになっているのかな。
  • 某所に書いた文章をこちらにも載せよう。しかし偉そうだなぁ。でも、似た趣旨のことはけっこう何回も書いているかもしれない。一応書いておくけど、少し下記のように思うだけで、全面的にこう思っているわけではない(思ってたらただの自惚れ屋さん)。「測るための基準」、あるいは「分類するための手掛かり」。この手のネタを私が書いているときは、能力値の分布があることを考慮している。正規分布とは違うかもしれないけど。「だいたいの自分の位置はこのへんかな?」って言うのはあるけど、私自身が下記の台詞を大々的に言えるような立場ではない。だから、論理的っぽい人に仮託して言わせた台詞だと思って欲しいかな。私は仮託して書いているつもりなんだけど、そういう背景を普段書いていないから、私が全面的にそれを正しいと思っていると受け取られてしまうかもしれない。気をつけないといけないなぁ。

社会常識を体感的に知っていること。それがうらやましい。それを論理的というか理屈で構築して社会となじむことは苦労する。常識を知っていて、その背後に潜む論理を知らない人への苛立ち。でも論理なんてどうでもいい、って思うことも多々。でも、論理を知らないから新しい規範を作るという能力がない。能力がないということに気がついてすらいない。しかし、能力というものはそういうものかも。

  • 不可解な行動にも原因とか理由と呼べるものがあるかもしれない。それは自分が今すぐ理解できないだけなのかもしれない。でも、そう思っていると、ただの短慮でした、ってこともある。だから、私の書いていることも基本的に短慮だと思ってよいと思う。なぜなら書いていることの多くが「意見を洗練させる過程」を経ていないからだ。私の思いつきに過ぎないことや、考えもなしにどこかに書いてあることを、ちょっと焼きなおしているに過ぎないからだ。では、洗練させる過程とは何か?というと、多くの相手と議論すること。書かれているのは思いつきの断片ばかり。まぁ、誰かが思いつきの断片を洗練させてくれればいいとは思うけど、現時点では個人的な備忘録程度かな。あるいは思考の欠片の記述。