感動の感度

「簡単には感動しない」、って思っていたつもりだけど、22過ぎたころからは節操がなくなったのか、けっこう単純に感動するようになった。押し付けの感動でもそれなりに受け入れるようになった気がする。それとも感度が上がったのかな。異なる種の感動センサを自分に取り込んだのだろうか?理性で面白いって思わなくても、感覚的にゾワゾワして涙が出そうになったりするときもあるしなぁ。なんか、自分の中にいつの間にか変な回路が組み込まれて、よく分からないときに面白がったり悲しがったりしている気がする。
 本とか、映画とか見るのは感動するためなのだろうか?心に琴線というものがあるなら、薬とかで揺らすことはできないのだろうか?*1感動できるものを見たから感動したいわけであって、感動できるものを見ていないのに感動したいわけじゃない。


2001/11/18<恥ずかしい台詞「誰かにわかってもらおうなんて思わない 」>
誰かにわかってもらおうなんて思わない。
なぜならその誰かは普遍的な同一性を保つには
あまりにもにも変動しやすいから。
絆は簡単に千切れてしまうから。
自分が感じた感動は、時を経て色褪せても
それがそのときは真実だったということは疑いないことだから。

馬鹿なストーリィ、べたべたな会話、
頭痛がするようなカメラのとりかた、
外れまくった音楽構成、・・・
だったとしても感動してしまったらそれはそういうものなのだ。
自分自身に普遍を付与しおうと思わなければ
いろいろ大丈夫でしょう。

最近特に、私が理性で理解できていないものまで感動してしまうことが多くなった。どんどん、心は混沌としてくるのだろうか?今まで気がつかなかっただけで、昔からそうだった?たぶん、自分について気がついた分だけ心に混沌としたものが宿っていることに気がつく気がする。

*1:できないであって欲しい